坂口安吾
「風と光と二十の私と」 講談社芸術文庫
○風と光と二十の私と
風や光と同じように、きっと二十歳の”私”は目には見えないモノだったのだろう。
ただ、当時の”私”には全てが見えていた。見えるままでいられた。
陽射しの中のエーテルの波も、裏側の悲しい意味も。
これは安吾が下北沢で小学校の代用教員をしていたときのこと。
行雲流水、欲も感情も持たず、でも少し嫉妬したり、ただ高貴な人の面影をだきしめていたり。
坂口安吾の名前は知っていてもなんとなく敬遠している方も多いと思います。
だがゼヒこれだけでも。
読後清々しい。ただただ清々しい。
もし教職を志している方であれば尚のこと。幸福と絶望が書いてあります。
不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから。
常々そう言ってのけるが、そんな風には言えないなあ。幸福の中にも自分はあるから。
幸福の中でも見誤らずにいけたらいいと思います。
でもそれは難しいんだろうなあ。
04.12.31
○魔の退屈
三分の一ぐらい死ぬ覚悟だけはきめていた
これは正に太平洋戦争真っ只中の話である。想像もつかない世界。
映画会社で脚本を書き、友人の行方を案じ、時々風のように現れる女のハリアイのない微笑を眺める。
一見、淡々とした日々を送っている。今と同じような日常。
だがその行間を覆っているのは紛う事無き絶望。
確実に終わる世界にいる。
あらゆる泥棒人殺しの跳梁する外部条件を完備しておりながら、殆ど一人の泥棒もオイハギも人殺しもなかったのである
それで人々は幸福だったか つまり我々は虚しく食って生きている平和な阿呆であったが、人間ではなかったのである
胸に刺さる言葉。
目を背けたくなるような惨状は数々、学んできた。
ここで語られているのは心の崩壊。魂の荒廃。そう、悪魔の退屈。
決して繰り返さない。
05.01.01